民族の誕生

 15世紀までには、スロヴェニア民族の居住地の北方の境界線はドラヴァ川(地図C1−D2)の付近までに下がっていました。 このころまでには、ハプスブルグ家が支配するドイツ帝国の枠内で、今日のスロヴェニアの中央に位置するサヴィニヤ川(地図C2)渓谷出身の ツェリエ(地図C2)の領主(写真右はその領主跡)が以前にもまして自国の権利を主張するが、成功せずに終わりました。ハプスブルグ家はスロヴェニアの土地全てを 支配し、双頭の鷲の君主国が1918年に崩壊するまで、スロヴェニア民族はウィーンに君臨する帝王に従うことになりました
 このようにして、スロヴェニア人の民族意識はドイツとの争いから形成されて行きました。とは言え、武力で戦えない相手似たいし、 言語、教育、書物の戦いで、知識階級、特に最初は聖職者が先頭に立っていました。1550年から1600年の間には、スロヴェニアの プロテスタント牧師達は、50冊の本を著し、そのほとんどは宗教関係の物であったが、スロヴェニア語の文法書も出版されました。 それから200年後には、自由主義者アントン・トマシュリ・リンハルトが、市場初めてのスロヴェニア民族の歴史を著しました。 その後、19世紀には、1848年のヨーロッパの「諸民族の春」のあと、スロヴェニアの知識人たちは初めて、自分たちの「統一されたスロヴェニア」 の政治綱領を出版しました。その中心となったのは詩人であり、ヨーロッパ浪慢主義精神の代表的人物フランツェ・プレシェーレンでありました。
 時代は前後して、中世から近代へ移行しかかった頃、スロヴェニアは中央ヨーロッパと同じく、何度も農民一揆が起きました。 それは、スロヴェニア民族の住むほぼ全域で発生し、激しい戦いの後鎮圧されました。
 スロヴェニアはクロアチアと共に、セルビア、ボスニアを征服して北上してきたトルコ人と戦う事になります。200年間に渡り 北上するこの民族はクロアチアのヴォイオ・クライナを通ってスロヴェニア民族の土地へ攻め入ることになり、スロヴェニア民族はしかたなく ヨーロッパの最前線で兵役につかざるをえなくなりました。

〈写真:ツェリエ領主の城跡〉


 19世紀の最後の25年間は、スロヴェニア民族も近代政治の時代に入り、主に三つの政治的な流れが出来上がりました。それは、スロヴェニア民族のカトリック教 に忠実な保守派、協会の政治干渉に反対する事だけに固守する自由派、そして工業化と労働者階級の形成に焦る脆弱な社会派です。
 20世紀に入る頃、スロヴェニアの政治家達は、ウィーンの議会でクロアチア、セルビアの代表者達と密接な関わりを持つようになりました。 そして、南スラブ人の国という一つの国を維持するために、ウィーンの双頭の鷲が、オーストリア・ハンガリー・南スラブの三つの国の頭になる事を 考え始めました。しかしながら、ウィーンの双頭の鷲は、すでにあちらこちらでがたがたになっている帝国でした。 それは、例えばチェコからの似たような要求に取り組まなければならず、そのためシュタエルスカ、コロシュカ、クラインスカ、ゴリシュカの四つの公国に 区分されているスロヴェニア民族を一つの国に統一し、さらにクロアチア、ヴォイヴォディナ、ボスニア、クロアチア内のセルビア民族にも平等に独立権を 与えるなど、とてもできる余裕など有りませんでした。
 このころ、すでに第一次世界大戦の激しい戦いが繰り広げられ、ソシュカ前線ではスロヴェニア人兵士が 多大な血を流したにもかかわらず、スロヴェニアの政治家達は自治権を要求する程度でしかなかった(写真はコバリド(地図A2)にある聖アントンの納骨堂。第一次大戦の戦死者の一部も奉っている。近くの クルノの地で山間における史上最大の戦いがあった。)。大戦後、何の報酬も与えられない結果となり、スロヴェニア民族は ウィーンの統治下にあった南スラブ諸民族つまりスロヴェニア、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを包括する独立国を望む方向へと向かって行きました。 この頃から、政治関係の書類にも、人々が語り合う言葉の端々にも、「ユーゴスラヴィア」という名称が現れ始めました。

    〈写真:コバリドにある聖アントンの納骨堂。第一次大戦の戦死者の一部も奉っている。近のクルノという地で山間における史上最大の戦いがあった。〉

スロヴェニア共和国トップページ