チトー大統領のユーゴスラヴィア
そして
独立に向けて

 1945年5月、「バルト海のシチェチンからアドリア海のトリエステ(地図A4)まで大陸を横切って鉄のカーテンがおりた。」(ウィンストン・チャーチル) この時、スロヴェニアはユーゴスラヴィアとして、その東側に 残り、「モスクワの管理下」に置かれることとなりました。全権力は共産党が握り、どんなに小さい会社も、大規模な農業私有地も国営化し、社会生活全体に対して、中央集権主義計画経済と政治家駆動の 厳しい監視が始まりました。各民族、各共和国は広範囲にわたって文化的、かつ行政上の独立性を許されたが、政治的には以前の王国時代よりさらに全てがベオグラード中心に行われました。 これは、共産党の独裁制度が幅を利かせ党内も厳しく中央集権的に組織されていたからです。
 1948年のチトーとスターリンの衝突は、イデオロギー上というよりは、実はモスクワ側からの政治経済分野における覇権主義に対するユーゴスラヴィアの抵抗で、この後、ユーゴスラヴィアは 西欧に接して行くことになりました。外国からの旅行者や自国民に対しても次第に国境を開き、市場経済の方法も幾分か導入して行きました。 その、社会主義的方向付けの特徴として、労働者自主管理を始め、警察の 一般社会に対する絶対権力の打破をめざし、そして、より大規模な経済・政治改革への条件が整って行きました。
 60年代半ばの改革は、チェコスロヴァキアやその他東欧諸国でも類似した状況が整ってきた頃に行われ、かなりの経済進歩をもたらし、同時に社会の民主化は、当然共産党の一党独裁の存続を危うくさせることになりました。 共産党トップは反撃を準備し、1971年〜72年にかなり手荒く改革派を追放するに至り、数々の「自由主義的」「企業心に富む」と告発された政治家や管理職層は早期引退や国内移住を強いられました。
 60年代の改革努力の遅れ馳せの反応として、70年代の始めには新しい連邦憲法ができ、最終的には74年に受理されて、各共和国に一層の独立性がもたらされるようになりました。 とは言っても、1980年のチトー没後数年後までは、ユーゴスラヴィアは民主主義から程遠い政治的圧力の下で年月を送りました。

    〈写真:クラーニ郊外のブルド。以前のユーゴスラヴィアの代々の王やチトー大統領の官邸であった。現在は観光客用高級宿泊施設及び教育センター〉

 80年代の後半になると、スロヴェニアには現代的な一般市民社会が急激に出来上がり、その構想を練った人達は、一部は作家協会や青年組織、またその機関紙ムラディーナなど既存の組織に地位を得、他の人々は 月刊誌ノヴァ・レヴィヤなど、新しい組織を結成していきました。同じ頃、政権を握る共産党内の闘争は、公には以前より目立たなくなってはいましたが、 改革派がまたもや勢力を増し、党の支部に当たる社会主義同盟などに座を占めるようになりました。彼らは硬直した自分達の党に対して過激な処方箋を出すようになりました。 その後、政権から退却するに至り、発生途上の野党は新たな「政治同盟」や「政治運動」を結成していきました。
 文化的闘争は公で声高々で、指導的立場に立ったのはまたしても作家達であした。その結果は、スロヴェニア人の間での政治的及び民族意識の急激な高揚、そして、ユーゴスラヴィア体制における社会生活に対する不満の声の増加です。
 1988年の夏には、3人のムラディーナ紙ジャーナリストと、彼らに軍部情報を伝えた1人の下士官に対する軍事裁判により、緊張は更に高まることになりました。 思うように成らないスロヴェニアを脅す目的で行われた裁判は、結果的にマイナス効果をもたらしました。大々的なデモは武力に訴えるものではなく、更に強固な意思表示の現れであり、 本当の民主主義、複数政党制、自由選挙を要求する声に、独立国スロヴェニアを求める声も重なっていきました。
    〈写真:80年代のユーゴスラヴィア崩壊の始まりはインテリ層の動揺から察知された。スロヴェニアの雑誌「ムラディーナ」は、旧国家の問題を含むあらゆるテーマを提示した。〉

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